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文芸サークル「鉄人四迷」のページ

文芸サークル「鉄人四迷」のページです。 オリジナルの小説・詩・脚本を発表しています。

「ALL YOU NEED IS LOVE」(I)

(一)

 13歳の春のことだった。彼はクラスメイトのA子からラブレターを受け取った。

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(一)

 13歳の春のことだった。彼はクラスメイトのA子からラブレターを受け取った。
 放課後の教室だった。二人のほかには誰もいなかった。開け放たれた扉から、甲高い笑い声や節操のない鳴き声のようなものがたえず流れ込んでいた。日誌を書き終え、帰宅しようと椅子から立ち上がったところで、彼はA子に呼び止められた。A子は年の離れた弟を見るような目で彼を見つめていた。「何?」と彼がA子に近づくと、A子は不意に、黄色いリボンの形をしたシールで封がされた白い封筒を彼の胸に押し付け、にんまりと笑い、「返事書いてね」と言い残して、そのまま真っ直ぐ教室を出ていった。あっという間の出来事であった。彼は脳の奥がじんじんと熱くなっているのを感じた。胸の奥に、冷たい突風が吹き荒れるのを感じた。目の焦点をどこに合わせればいいのかわからなくなった。ふと顔を上げると、目の前のガラス窓に、蛾が何度も何度も体当たりしているのが見えた。彼はこの蛾に目のピントを合わせた。合わせたところで何かを得られるわけではなかった。しかし、彼には、その無意味さだけが救いだった。永遠とも思える時間が過ぎ、蛾はいつの間にかいなくなっていた。彼は慌てて鞄を掴み、駐輪場に走っていった。自転車に鍵をさしながら、さっきの蛾がいついなくなったのか思いだそうとしたが、うまくいかなかった。


(二)

 (A子は一年生にして女子バレー部のエースであり、成績は優秀で、小柄で色が白く、竹を割ったような性格で、何よりアイドルのマツウラアヤによく似ている。)自室の隅で封筒のシールを慎重に剥がしながら、彼はA子について知っていることを順に思い浮かべていた。
 (いい匂いがする。)封筒の中には一枚の便箋が入っていた。
 (友達が多い。)彼は便箋を広げた。
 (必然、彼女は異性によくもてるが、浮いた噂は今のところ、ない。)彼もまたA子に密かな思いを寄せる生徒の一人であった。
 (指が細い。)彼は何よりもまず先に、手紙の差出人を確認した。
 (A子とは小学校を含めると7年間ずっと同じクラスだ。)筆圧の高い文字列の結びに、差出人の名前が小さく記されていた。
 (ずっと好きだった。)彼は目をこらした。
 (だが接点はまるでなかった。)

  書かれていたのは、A子の名前ではなかった。
 Nさん。
 Nさん?
  彼はその名前にかすかに見覚えがあることに気づいた。そして同時に、とてつもない安心感に満たされてもいた。彼は落ち着いて、便箋に綴られた文字を頭から読み返してみた。突然のお手紙云々。いえいえ。Nさんは彼に好意を寄せている。それはそうだろう。ずっと。ずっと? Nさんは彼と同じ小学校に通っていた。そうだったかもしれない。同じクラスになったことはなかったけど。そうだったかもしれない。NさんはA子と同じ女子バレー部に所属している。ぜんぜん知らない。NさんはA子に“相談”していた。嫌な言葉だ。Nさんは彼の“やさしいところ”に惹かれた。嫌な言葉だ! 本当は自分で手渡したかったけど、手紙を書くだけで精一杯だったので、A子に託した。何だそりゃ。中学に上がったら告白しようと決めていた付き合ってくださいお返事待ってますそれでは。
  彼は本棚の奥から、小学校の卒業アルバムを引っ張り出した。そしてその中にNさんの写真を見つけた。
  まずい。かわいい。
  彼は少し悩んだ末、断りの手紙を書くことにした。彼のA子への思いについては書かなかった。書きたかったが、書かなかった。


(三)

 彼は今まで、何度A子に思いを伝えようとしたかわからなかった。朝起きて、今日はいけるぞと思った日には、用もないのにA子の席の周りをうろうろして、話したくもないクラスメイトと話をしながらA子の様子をちらちらと窺ったりもした。しかし、告白という選択肢を実行に移すことはなかった。いくつかの考えが彼の頭に浮かんできて、いつも足をすくませてしまうからだった。例えば、彼は、彼自身について、肉体的にも精神的にもA子にふさわしい人間であると思ったことがなかった。早い話が、自分はA子に釣り合わないと彼は感じていた。彼はこれといった特徴も特技もなかった。ただ、他人を怒らせぬことだけを考えて生きてきた。そんな彼のことを、Nさんのように“やさしいひと”だと勘違いする者もいた。しかし実際、彼はただのつまらない人間だった。
 一方で彼は、A子が(彼自身を含めた)「誰かのもの」になってしまうことをとても恐れていた。A子は「誰のもの」にもなるべきではない、という強い信念を勝手に抱いていた。彼の目に映るA子は無垢そのものだった。それが子供っぽい考え方であることは、彼自身も気づいていた。しかし、A子が誰か(彼自身を含めた)の腕の中に抱かれたり、誰か(彼自身を含めた)の前で裸になったりしている場面は、とても想像がつかなかった。無理をすれば想像することもできたが、無理をして想像する意味もなかったし、無理をしなければ想像できないということは、やはりA子が「誰かのもの」になるということ自体がとても不自然なことなのだと彼は考えていた。A子は、世界のあらゆる汚れたものから最も遠い場所で生きているように見えた。それは、A子が女子バレー部のエースだとか、マツウラアヤによく似ているとか、そんなことよりも(もちろんそんなところも好きだったが)、もっと重要なことだった。彼は、もしかしたら、自分はA子のことが好きなあまりに、少しおかしくなっているのかもしれない、と思ったことがあった。しかし、彼はそのことを恥じたり、不安に思ったりはしなかった。A子のことでおかしくなるのなら仕方がないことだと考えていた。彼は、「誰のものでもないA子」を遠くから眺めていることに、無上の幸せを感じていた。「誰のものでもないA子」を思うと、彼の胸は妖しく優しく高鳴った。しかし、時々ふと「誰のものでもないA子」だっていつかは「誰かのもの」になってしまうだろう、という考えが頭をよぎることがあった。そのたびに、彼は気だるさと後ろめたさに襲われた。
  「誰かのもの」になるということは、どういう意味を持つのか。Nさんに断りの手紙を書いた日の晩、彼はじんじんする脳で考えようとした。何となく掴みかけているこの気だるさと後ろめたさの正体をきちんと突き止めようとした。そこには、「誰かの腕の中に抱かれたり、誰かの前で裸になったり」すること以上の「何か」が潜んでいるような気がしていた。ここが考え時だと思った。彼は大きく息を吐き、CDプレイヤーに『マジカル・ミステリー・ツアー』をセットした。11曲目までスキップした。ラ・マルセイエーズ、ドラムロール、そして甘ったるいコーラスが流れてきた。ラァヴ・ラァヴ・ラァヴ……ラァヴ・ラァヴ・ラァヴ……ラァヴ・ラァヴ・ラァヴ。
 俺もそう思うよ。彼は呟いた。
 A子のことを考えるときにはこの歌を流すのが一番だと彼は感じていた。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 馬鹿馬鹿しいほどシンプルで美しいメッセージは、A子の笑顔によく似合っていた。

 やはり俺は少しおかしくなっているのかもしれない、と思いながら彼は考え続けた。しかし結局気だるさと後ろめたさに耐え切れなくなり、考えるのをやめてしまった。答えは出なかった。CDはいつの間にか終わっていた。彼は再び再生ボタンを押した。ラ・マルセイエーズ、ドラムロール、そして甘ったるいコーラスが流れてきた。ラァヴ・ラァヴ・ラァヴ……ラァヴ・ラァヴ・ラァヴ……ラァヴ・ラァヴ・ラァヴ。それは優しくて、能天気で、無責任な歌だった。


(四)

 彼の両親は普段、一言も口をきかなかった。しかし、彼の父は毎晩彼の母を抱いた。もしかしたら、彼の母が彼の父を抱いているのかもしれなかった。彼は夜毎自室の外に、錆びた蝶番を開け閉めするような音を聴いた。きっかり30分。その音が止むと、大きな鼾と、携帯電話のボタンが猛烈な速さで叩かれる音とが、交互に響いてきた。彼は布団の中でたびたび、「あれはなんだ?」と考えることがあった。しかしそれはたいてい無駄な努力に終わった。いくら考えても納得のいく答えは出なかった。彼は寝返りをうち、きっと死ぬまで口をきかないであろう両親の顔を思い浮かべた。冴えない顔だった。彼らが毎晩全身に汗をかき、至る場所を痙攣させながら抱き合っている姿は、滑稽に違いなかった。まるでそのためだけに国立大学を卒業し、そのためだけに家を買い、そのためだけに着飾り、そのためだけに心臓を動かしているように見えた。彼はA子を思い浮かべた。夜の闇の中に、A子だけが輝いて見えた。

 彼の両親は、彼のことがあまり好きではなかった。彼は地味だった。運動が出来るわけでも、勉強ができるわけでもなかった。ただ他人の顔色を窺いながら、いつでも何か考え事をしていた。しかし、その内容はつまらないものばかりだった。理屈をこねられるほどの頭は持ち合わせていなかった。ただ、他人を怒らせぬ程度の適度な冗談と適度な正義感だけが、彼の唯一の取り柄だった。より正確に言えば、彼の両親は彼に飽きていた。彼の父は彼のことを、母に似てつまらない奴だと考え、彼の母は、父に似てつまらない男だと考えていた。

 彼は、彼の両親の間には「愛」が無いのだと感じていた。「愛」という言葉の意味はよくわからなかったが、少なくとも彼の両親の日々の営みは、彼が想像する「愛」の手触りとは大幅に異なっていた。ぐずぐずとした、分厚い灰色の雲を眺めているような気分だった。しかし。しかしだ、もし、あの営みの果てに生まれたのが自分であるならば、自分がこんなにも凡庸でつまらない人間であることにも納得がいく。彼はそんな理屈をなすりつけ、少し得意になり、同時に少し寂しくもなった。いや、この世界は、「愛こそはすべて」のはずだ。あんなものにもし「愛」が宿っているのなら、世界がA子のような存在を許すはずがない。そんなばかなことがあってたまるか。A子の生命がこの世に一歩足を踏み出した夜(朝か昼か夕方かもしれなかったけど)のことを想像すると、彼の胸は息苦しさと喜びでいっぱいになった。きっとその部屋(外だったかもしれないけど)には彼が理想とする「愛」が充満していたに違いなかったからだ。理想とする「愛」がどういったものなのかはよくわからなかったが、彼は満足した顔で布団をかぶった。夜は更けていた。


(五)

 13歳の夏のことだった。彼は夏休みの宿題のために、学校の図書室を訪れた。駐輪場の屋根の真上に、白く輝く雲が横たわっていた。人気の無い廊下には熱が篭っていた。彼は図書室の扉の前まで来たところで、誰かが扉を薄く開け、腰をかがめて中を覗き込んでいるのを見た。訝しがりながら近づくと、それはA子であった。A子は彼の気配に気づくと、彼に顔を向け唇に手を当て、再び中を覗いてから、そっと彼に手招きをした。彼は帰りたかった。Nさんの件以来、A子を含めた女子バレー部員と彼の間には、妙な空気が流れていた。しかし、零れんばかりに開かれたA子の大きな瞳を見ているうちに、彼は扉の向うで何が起きているのかを確かめたくなった。彼はA子の横に並び、扉の隙間から中を覗き見た。
  正面に貸出カウンターが見えた。その向うで、人影が二つ、もぞもぞと動いていた。一つは椅子に腰掛けた中年の男だった。一つは、男の膝に跨った女子生徒だった。彼らは西日の当たるカウンターの中で抱き合っていた。彼は、男が図書室に常勤している司書であることに気づいた。女子生徒の顔は見えなかった。二人とも肥っていた。彼らは時折、互いの耳元に口を寄せ、何かを囁き合っているようだった。そして長いキスをした。それが終わると、密着したまま、奇妙な動きをゆっくりと繰り返した。まどろみの中にいるようだった。腐った彫刻がゆっくりと崩れていくのを見ているようだった。彼の顎から汗が垂れた。彼の耳の中に、荒々しい咆哮のようなものがこだました。

「愛?」

 彼はその咆哮のようなものを、妙に落ち着いて聞いている自分に戸惑った。彼は扉から顔を離し、A子を見た。A子は目の前の光景に不調和なほど、なにか輝かしい顔をしていた。
  彼は、A子と彼の間に薄いヴェールのようなものがはためいているのを感じた。


(六)

 その晩
  彼は夢を見た。
  彼は教室にいた。
  彼の他には誰もいなかった。
  ただやつれた小さな雲が一筋、
  窓の外に残されていた。
  辺りは暮れかかっていた。
  彼は薄明るい机の上で、
  何かが蠢いているのを見つけた。
  彼は目をこらした。
  それは鼠ほどの大きさの
 A子だった。
  A子は机の上に大の字に寝そべり、
  天井を眺めていた。
  彼はA子に手を伸ばした。
  震える指先で、
  そのやわらかい腹を
  ゆっくりと撫でた。
  A子はいじらしい目を彼に向けると、
  何かつぶやいて寝てしまった。
  彼は丁寧に腹を撫で続けた。
  その薄い皮は、
  少しでも力を入れたら
  すぐに破けてしまいそうだった。
  その皮の下で、
  たくさんの内臓や血液が、
  すすり泣くように
  コクコクと動いていた。
  彼はそのあまりの危うさに
  泣きたくなり、又同時に
  深い喜びを感じていた。
  彼は背後から迫りくる夜の闇と
  戦いながら、
  A子の腹を撫で続けた。
  それは、
  奇妙な動きに違いなかった。


(七)

 14歳の春のことだった。あの出来事から半年以上が経っていた。
 彼は、A子に恋人が出来たという噂を耳にした。
 そして彼は、その噂が事実であるということを、偶然彼自身の目で確かめてしまった。
 彼はある日の帰り道、サッカー部のKとA子が手をつないで歩いているのを目撃した。やっぱり。とうとう。まさか。なるほど。彼の頭は単純な単語を羅列させるだけで精一杯だった。彼は家に着くやいなや自室に篭り、カーテンを閉め、机に向かい、ノートを広げ、何かをメモしようとしたがうまくいかず、カーテンを開け、ノートを閉じ、台所に行って冷蔵庫の中でいやというほど乾き切っていた鉄火巻を取り出し、醤油もつけずに頬張り、桃の天然水を飲み干し、再び自室に篭り、CDを再生したまま、夕飯の時間まで眠った。あの夢の続きは見られなかった。夜がいつまでも明けなければいいのにと思った。オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。

 あれ?
 こんな歌だったっけ?



(八)

  7月4日

  体育の授業のあと、校庭から教室に帰る道すがら、一緒に歩いていたSとYが、ずっと前の方で友人と談笑していたA子の体(唇や胸や尻やそれらよりきっともっと重要なのに何だかよくわからんもののあたり)をじろじろと見ながら、
「お前、知ってるか。Kに聞いたんだがな、A子は、まだ××がきていないらしいぞ」
「何、本当か。それじゃ、Kのやつ、××で×××し放題というわけか」
「そうでなくてもあの二人、最近××××りらしいな」
「Kが風邪で休んだことがあったろ? あの時、Kが見舞いに来たA子に」
「×××××させて××を××せたって話か?」
「2回な」
「回数までは知らなかった」
「A子から聞いた」
「素晴らしい」
 などと話していた。
 俺はつま先で石を蹴りながら、SとYを黒く塗り潰した。
 A子とすれ違ったとき、嗅いだことのないにおいがした。A子はまた少し、髪を染めたようだった。じきに夏休みがくる。しかし、仮にまた同じ夏が来ても、図書室の前に、もうA子はいないだろう。俺はためらった末、A子を黒く塗り潰した。



(九)

 ある朝、彼はいつも通りの時間に目を覚ますと、いつも通りカーテンを開けた。窓のすぐ外には、いつも通りのブロック塀が並んでいた。そのブロック塀の上で、A子が眠っていた。猫ほどの大きさだった。
  彼は朝食を済ませ、制服に着替え、いつもより早い時間に玄関を出た。A子の腹を撫でる時間を考えてのことだった。しかし、彼が出かける支度をしている間に、A子は電信柱と同じくらいの高さになっていた。彼はA子のやわらかい腹を諦め、自転車に跨った。

  放課後、彼の他に誰もいない教室で彼が日誌を書き終え、ふと顔を上げると、窓の外が真っ暗だった。彼は驚いて窓を開けた。水のにおいがした。闇の中で、さらに深い闇が膨張と収縮を繰り返していた。彼は窓から離れ、遠くからその闇を眺めてみた。彼はすぐに、それが巨大な目だということに気づいた。彼は屋上に上がった。A子が、屋上に肘をつき、潤んだ瞳で彼を見つめていた。A子は、校庭いっぱいにまで大きくなっていた。

  その晩、彼が自室で漫画を読んでいると、どこからか聞きなじみのある音楽が聞こえてきた。優しくて、能天気で、無責任なその歌は、彼の住む町を妙な感傷で包み込んでいった。彼は窓を開けた。A子が大の字に寝そべり、空を眺めていた。星のない夜だった。A子の体は大地を覆うほどの大きさになっていた。彼は音のする方へ自転車を走らせた。A子の透き通るような肌の上で、月の色をした無数の産毛が陽炎のように揺らめいていた。彼は途中で自転車を乗り捨て、A子の腹によじ登った。A子の腹は温かく、湿っていて、ゆるやかに上下しては、彼の足の裏にそっと吸い付き、再び離れていった。彼は、A子の視線を背中に感じながら、やわらかい腹の上を進んでいった。優しくて、能天気で、無責任な歌はどんどん近づいてきた。不意に、彼は地面に投げ出された。体を起こし、後ろを振り向くと、
  彼の目の前に、
  肉で出来た翅のようなものが、
  ぽっかりと浮かんでいた。
  いつもならその場所には、
  図書室の扉があるはずだった。
  彼は耳を澄ませた。
  肉の翅の奥から、
  例の音楽がはっきりと聞こえてきた。
 彼は翅をこじ開け、その向う側に歩みを進めた。体が熱い闇に包まれた。鉄と水のにおいがした。やがてその熱い闇をくぐり抜け、ゆっくりと目を開けると、西日に照らされた貸出カウンターが現れた。その中で、裸のKが、制服を着たままのA子を膝に乗せ、奇妙な動きを繰り返していた。ねじれたり、しなったり、ひしゃげたり、膨らんだり、伸びたり、縮んだり、寸刻の休みもなく、彼らは蠢いていた。そしてそんな二人を取り囲むようにして、無数の人間が佇んでいた。彼らはA子とKを見ながら、穏やかな顔で自慰に耽っていた。その中には彼の両親がいたかもしれないし、NさんやSやYがいたかもしれなかった。彼らの顔は、どれも皆同じに見えた。

 優しく、能天気で、無責任な歌は、A子の口から流れていた。それは馬鹿馬鹿しいほど奇麗な声だった。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 A子が大きく体をのけぞらせた。Kは歯を食いしばっていた。歌声はいよいよ高まった。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 彼の耳の中に、咆哮のようなものがこだました。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ、オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。
 A子の姿は西日の中に溶けていった。
 彼は消えていくA子を見ながら自慰に耽っていた。
 気がつくと彼は性器を握り締めたまま夜の町に放り出されていた。
 馬鹿馬鹿しい幕切れだった。


(十)

 14歳の冬休み、A子は突然転校した。別れを惜しむ間もなく、A子は行き先も告げずに彼の住む町を去っていった。
 KはA子などいなかったかのように振舞った。休日にKがKの両親と学校を訪れるのを見た者がいた。様々な噂が飛び交ったが(その大半はSとYの口から語られた)、真相はわからなかった。真相が何であろうと、彼にはもう興味がなかった。それよりも彼はあの夢(?)の中から妙なもの(変態的な性癖とか)を持ち帰らなかった自分を、改めて褒めてやりたくなった。

  あの夢(?)以降、彼はどこか変わった。どこがどう変わったのか、彼自身にさえうまく言うことはできなかったが、彼は確かに変わった。変わった気がしただけかもしれなかったが、彼にはどっちでもいいことだった。彼の両親は相変わらず非生産的な夜を過ごしていたし、Nさんは未だに彼のことを“やさしいひと”だと思っているようだった。そういえばKは進路を変えたらしい。まぁ、何でもいいや。愛こそはすべて。愛こそはすべて。気持ちいい言葉だ。「愛」の意味なんか重要じゃない。「愛こそはすべて」なんだろう。とにかく。

<了>

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空疎

あなたはただのゼリーです
見える光は全部嘘
聞える音は全部嘘
あなたはただの
ふるえるゼリー
ひとりふるえる
ただのゼリー

中編小説「ゼリーの見た夢」より


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六井 象/I

 失恋した友人が髪の毛を短く切ってきた。
 彼女の髪の毛の中に、爆弾の導火線が一本混じっていたと知ったのは、それからすぐ後のことだった。


短編小説「鋏」より

個人サイト

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小石薫

美代子は必死だ。一生懸命に声を張り上げて、誰かが、聞いて、興味を持って、自分のいる教室のドアを開けてくれることを、ずっと待っている。
 伝えたいことがあると言った。
 私には、あるだろうか。伝えたいもの。伝えたい気持ち。私の中にあるのは、ぬるく、濡れそぼった、この、寂しさだけ。

短編小説「夕焼け校舎」より


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金魚風船


「私の事、好き?」


「え?」


「ごめん、いきなり」


「ごっつ好きやで」


「ほんとに?」


「当たり前やろ、俺のたった一人の娘なんやから」


「そっか」


間。



「やっぱ、別のことしよっか」


「え? なんで? 凄い楽しいのに」


「じゃあ、もっと楽しそうにやれよ。そんな下ばっかり見とったらな、楽しい事も嬉しいことも、いつの間にか全部通り過ぎてしまうぞ」

短編脚本「お父さん」より

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