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文芸サークル「鉄人四迷」のページ

文芸サークル「鉄人四迷」のページです。 オリジナルの小説・詩・脚本を発表しています。

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「おかえりなさい。<前編>」(小石薫)

テーマ:どんぐり



1
 1月1日、朝。三坂愛はドングリを煮ている。実家のある熊本から送られてきたシリブカガシだ。

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1
 1月1日、朝。三坂愛はドングリを煮ている。実家のある熊本から送られてきたシリブカガシだ。
 帽子のような殻を外して包丁の腹で粗く砕き、水をいれた鍋に放り込んだ。竹の菜箸で手慰み程度にかき混ぜながら煮ていく。沸騰してからさらにしばらく煮るとアクが浮かんでくる。最初はいちいちオタマですくっていた愛だったが、とても追いつかないのでお湯ごと捨てることにした。それからまた水を汲み、火にかける。
 煮て、アクを捨てる。そんなことを何度も繰り返して、かれこれどのくらい経ったろうか。顔をあげると、時計がちょうど午前10時を指していた。愛がエプロンをかけながら時計を見たときは8時半だった。煮始めてからもう1時間半が経ったことになる。愛は腕を上につきだして大きく伸びをした。
「1年の計は元旦にありか」
 退屈しのぎに声を出してみる。それから、また煮立ち始めたドングリ鍋に視線を落として、フッと笑った。
――どんな一年になることやら。

2
 そのひと月ほど前。12月8日、夜。曽根勝也はアパートの借り部屋で、スケッチブックに向かっていた。スケッチブックには、年若い女性が描かれている。肩までのばした髪を風になびかせ、その姿は屹立した一本の木のようだった。丸みを帯びた顔にはかすかにあどけなさが残り、切なそうな眼差しをどこか遠くへ投げていた。
 勝也の数少ない特技のひとつは絵を描くことだ。趣味を趣味のまま持ち続けたい勝也は、デザイン科のある大学には進まず、山梨の山の中にある大学の文学部に進んだ。人文科学というものにも興味はあったし、何より親元を離れ、ひとりで生活してみたいという思いも強かった。勝也の実家も山梨にあるので、それほど遠く離れたわけでもなかったが、家を出る、ということが勝也にとっては重要だったのだ。そしてもうすぐ、ひとりで暮らし始めて最初の年末を迎える。
 勝也は大半の学生同様、あまり勤勉な方ではない。今も、明後日に課題の提出を控え、焦った末にデッサンに打ち込んでいたところだ。もちろん、デッサンは課題になんの関係もない。課題の内容は里山の植生に関するレポートなのだ。
 やがてデッサンが一段落すると、勝也は壁にもたれかかり、明後日の課題をどうやってごまかしてやろうかと思案し始めた。課題のため指定されたテキストは、スケッチブックの下で台になっている。
――とりあえず、明日誰かに写させてもらうとして。
 お決まりの不道徳が首をもたげたところで、呼び鈴がなった。勝也は驚いて体を起し携帯を見る。もう夜の10時だ。
――愛? いや、祐一か。
 勝也は、大学の仲間の顔を思い浮かべた。まだ入学から1年も経っていない勝也を、この時間に連絡もなく訪ねてくるのは、高崎祐一ぐらいだった。勝也と祐一とは、入学まもなく意気投合して、夏の初めには泣きながら酒を飲み明かした仲だ。
 大学は山の中である。そのくせ日本中から学生がやってきて、人種のるつぼ状態だ。必要最低限のものは周辺のスーパーのおかげをもって揃うが、それ以上のものが欲しければ電車で1時間程かけて街にでなければならない。そういう閉ざされたような環境にあって、在学生の男女比はほとんど倍ときている。最初は先輩方から、このために簡単に彼女ができるとうそぶかれた勝也と祐一だったが、春が過ぎ夏を迎えても、二人は女の先輩同輩から尻にしかれ続けた。少し艶のある態度を取られると、途端に唯々諾々となる二人も、まぁ、もちろん、悪いのだが。そういうわけで、勝也と祐一はある初夏の夜、先輩の買ってきた缶チューハイを飲み交わして、肩身の狭さを嘆きあったというわけだ。もっとも、それからしばらくもしない内に、勝也に三坂愛という、学外だが同い年の恋人ができてしまい、祐一がそのために一方的に勝也との交流を遮断した時期も、ごく短いながらあった。
 そういうわけで、勝也はこの時間に自分を訪ねてくるのは祐一以外にいないと確信した。愛にしても、彼女の生活を考えると、この時間に訪ねてくるとは考えにくかった。そこで勝也は、できるだけ親切親身にもてなして、明後日の課題を写させてもらおうと腹黒く胸算用を始めた。それから朗らかな笑顔を作りドアを開けた。

3
 12月8日。夕食を終え、愛は、ボールペン一本で描かれた古事記の漫画を読んでいた。本を見つめたままコタツの上の湯呑に手をやって、空になっていることに気がついた。仕方なく本を一度置き、茶箪笥の中の茶筒を取って戻る。フタを引っ張ると、ポンッと小気味いい音がして茶筒が開いた。中ブタを取って覗くと、こっちも空だった。
「あれ。淹れるときこれで最後だって言わなかったっけ?」
 愛と向かい合って日記を付けていた和泉が、顔を上げて言う。
「忘れてました」
「おばか」
 和泉は日記帳を閉じると、かけていた丸めがねをコタツの上に置いた。
「それとね」
 急須を持ち、フタを開けて中を確かめる。まだ葉が使えそうなのを確かめると、まっすぐに愛を見つめた。
「すぐお茶を変えない。そんなじゃ、あっという間にお茶っぱなくなっちゃうでしょ」
 めがねを外すと目が細まるせいで、ただでさえキツイ目つきが一層迫力を増して見える。しかも和泉は愛より5つ年上で、居候相手でもある。「その方が美味しいんだもん」なんて、愛には冗談でも言えない。
「ご、ごめんなさい」
 ここに来てからよく謝るようになったな、と、愛は思う。はむかったところで、熊倉和泉には勝てる気がしない。愛よりも小柄で、力に任せれば組み伏せられるのではないかと、頭の中では何度も想像してみるのだが、いざ向かい合ってみると、もうそんな気など一切起こらなくなってしまう。
「明日、買いに行ってきてもらっていい」
 語尾が上がらない。愛は頷くしかない。が、愛は彼女の人柄を少しずつ理解し始めている。一緒に暮らし始めてからもう8ヶ月目だ。和泉は愛に頼み事をする時は、心のどこかで申し訳なく思っているらしく、その後は意外と愛の言うことを聞いてくれる。横柄なのかお人好しなのかわからない。そこで、愛はここでひとつ和泉に頼んでみることにした。
「和泉さん。そういえば、アイスももうなかったですよ」
「アイス?」
 和泉は訝しそうに愛を見る。
「コタツに入りながら、サクサクくんを食べたら美味しいと思うんですよね」
 サクサクくんとは、カップアイスにコーラをかける食べ方で、愛が命名したものだ。アイスに触れてシャーベット状になったコーラがなかなか美味しい。と、愛は思っている。
「あぁ、あれね。夏やったけど、美味しかったね」
 和泉もだ。和泉はめがねをかけ直し、日記帳を再び開いた。愛としては、アイスの件をただの話しの種に終わらせるつもりはない。
「コンビニ行きません? おこたでサクサクくんやりましょうよ。今日でなくても」
 和泉は愛をみつめてパチクリした。言葉はなくてもその目が、ソレハ、ワルクナイデスネェと言っている。
 コンビニに行きません? というのは、つまり車出してもらえません? ということだ。ふたりは和泉の車でコンビニに行き、カップアイスふたつとコーラのペットボトルをひとつ買った。帰りがけ、愛は和泉に、勝也の部屋に少しだけ顔を出してきていいか聞いた。部屋がこのすぐ近くなのだ。
「ご勝手に」
 和泉は嫌そうな顔をしたが、結局それを許して、運転席で本を読み始めた。愛は我が意を得たりと恋人の部屋に駆け出した。
 ところが、部屋の入口が見える所まで来て愛は立ち止まった。スーツ姿の女性がそこに立っている。
「誰?」
 思わず、口の中でつぶやく。腕の時計をみると、もう午後10時だ。恋人でもないのに、こんな時間に部屋を訪れる人なんているだろうか。事態が飲み込めず立ち尽くしていると、玄関のドアが開き、勝也が笑顔で出迎えるのが見えた。女性は、まるで自分の家に帰るような自然さで、勝也の部屋の中に滑り込んでいった。愛は、たまらずその場を走り去った。
 あまりに早く戻ってきて、ほとんど口を聞かない愛を和泉は心配したが、愛はなんでもないと答えたきりうつむいていた。

4
「お前、それ、まるっきりホラーだろ」
 高崎祐一は、勝也から昨晩の話を聞いて、がたいの良さに似合わず顔を青くした。ふたりの通う大学の図書館には、声を出して話すことができる談話スペースが設けられていて、4人掛けの丸テーブルがいくつか置かれている。そこで勝也が話したのは、昨日の夜10時の訪問者のことだった。

 最初、勝也は祐一が訪ねてきたのだと思い、課題のため過剰なほどの笑顔で応対した。ところが、そこにいたのはスーツを着た、随分年上の見ず知らずの女性だった。彼女はごく自然に部屋に上がり込み、ぐるりと部屋を見回して、うん、とひとつ頷いた。それから呆然と立ち尽くす勝也に向き直り、どこか寂しげに微笑んだ。
「ただいま」
 そしてそう言うと、煙のように掻き消えてしまった。

「それ、本当なの?」
 愛の眼光に気圧されながら、勝也は頷く。談話室では、勝也と祐一、それから愛の三人が丸テーブルを囲んでいる。愛に、昨晩の出来事について説明を求められての集まりだ。祐一は、ふたりの調停役である。
「愛とか熊倉さんに相談しようと思ってたとこなんだ」
 勝也にそう言われて、愛は複雑そうに視線をそらした。
「あぁ、そういえば三坂さんって見えるんだよな」
「うん」
 そのことは、愛が実家の熊本を勘当同然に飛び出してきた大きな理由のひとつとなっている。和泉の下に居候しているのも、同じ理由からだ。和泉は、愛と比べてはるかに強い霊感を持っている。霊能力者と言ってもいいくらいだ。愛はそんな和泉と共に生活を送りながら、自分の行くべき道を探しているのだった。
「だから、今日さ、部屋に来てくれよ」
「俺もか?」
 弱った目で訴えられて、愛は思わず頷いたが、祐一は不服そうな声をあげた。
「お前がいると心強いんだけど」
 その幽霊らしい女性と取っ組み合いでもするつもり? と、愛は首をかしげた。幽霊が相手なら、頼りになるのは自分だろう、祐一などではなく。と、視線を送るが勝也は気づかない。
「課題があるからなぁ。お前の分もやらなきゃならんし」
 祐一の言葉を聞いて、勝也は深く頭を下げた。
「すまん」
「里山の植生だろ? この植物系男子に任せとけ」
 祐一は胸を叩いて請け負う。愛からすると、なんとなく気持ちの良くないやりとりだった。
「その前に、スーパーに寄っていい? お茶っぱ買わなくちゃいけなくて」
「ごめんな、用事あんのに」
 割って入ると、勝也は申し訳なさそうに頷いた。申し訳ないのは頼みごとをしている立場なので当然だが、愛はこれで溜飲を下げた。
 さてその日の夕方、愛は勝也と一緒にスーパーでお茶っぱと夕食の材料を買ってから、彼の部屋を訪れた。愛の好きなグリーンアップルの芳香剤が、鼻をくすぐる。
「お邪魔しまぁす」
 普段和泉との生活があるので、勝也の部屋に上がるのは久しぶりだ。浮き立つ気持ちを抑えつつ部屋に入る。と、途端に眉をひそめた。部屋の中央に置かれたテーブルの上で、スーツを着た女性が一心にスケッチブックに向かっているのだ。年齢は和泉よりも、少し上くらいだろうか。ひとまず、愛は買い物袋を床に置いた。
「やっぱ、なんかいるのか?」
 愛が黙ってスケッチブックを指差す。誰も触れないスケッチブックに、鉛筆で書かれた絵が少しずつ浮かび上がっていく。楕円形だったり長四角だったり、はっきりとしない形がいくつも現れる。
「ねぇ、あなたどうしてここに居るの?」
 愛が語りかけると、絵はぴたりと止まった。女性は愛の方を向き、悪びれる様子もなくニコリと笑った。
「ここが私の部屋だから」
「なっ」
 嫌悪感をあらわにする愛の横顔を、勝也は不安そうに覗き込んだ。
「なんて?」
「ここが自分の部屋だからいるんだって」
 聞いて、勝也はイッと息を飲んだ。
「なぁ、ここはお前の部屋じゃないって言ってくれよ」
 愛はせっつかれて、ため息をつく。このままではまどろっこしく思った。
「ねぇ、出てこれる? 昨日みたいに、見えるようになれるんでしょ?」
 女性は、困ったように窓の外を指差す。夕日に照らされて、景色が赤く染まっていた。
「暗くなるまでは無理かぁ」
 呆れる愛に女性は頷いた。勝也も察したらしく、壁にもたれて座り込んだ。
「つってもなぁ」
「落ち着かないね」
 愛も言いながら勝也の隣に座った。愛としては、せっかく勝也の部屋に来ているのだから、何かいろいろとしてみたいこともあるのだが、こう人がいてはできるものではない。夕食の下ごしらえでもしようかと思っても、多分食べないだろう人がひとりいると落ち着かないし、なにより仮にも女性である人と勝也をふたりにしたくなかった。
「彼女、居づらくしてやろうか?」
 愛は可愛く見える角度を作って勝也の顔を見つめ、彼のふとももに手を置く。
「いや、あのなぁ」
 困惑する勝也の顔を見て、愛は手を離した。
「私だってやだよ」
 乗り気になられていたら困ったのは愛の方だ。結局、ふたりは手持ち無沙汰に日が暮れるのを待った。愛の心に不満が積もっていく。
 やがて外が暗くなり始めると、勝也の目にも少しずつ女性の輪郭がはっきりしてきた。
「電気、つけて大丈夫?」
「あぁ、いいよ」
「勝也じゃなくて」
 思わず返事をした勝也を、苛立ったように止める。女性が頷いたので、愛は立ち上がり壁のスイッチであかりをつけた。勝也も立ち、カーテンを閉める。
「見える?」
 勝也は頷く。
「見えてきた」
 愛は軽く咳払いをする。
「じゃあ、まず名前を聞いていい? いろいろ不便だし」
「トトリ」
 今度は、勝也にも声が聞こえた。愛はまた顔をしかめる。
「それが、名前?」
 トトリは当然のように頷く。愛は深くため息をついた。
「本名じゃないでしょ? ホントの名前は?」
「覚えてない」
 トトリは腕を組み、考えてこむ仕草をする。愛は唇を噛んだ。
「なぁ、早く出てってくれよ。ここはあんたの部屋じゃないんだ」
 耐えかねて声をあげた勝也の方を向き、トトリは表情を険しくした。
「ここは私の部屋よ」
 はっきりとした調子で抗議する。あまりに自信に満ちた口ぶりに、ふたりは一瞬黙り込んでしまった。その沈黙を了承と受け取ったトトリは、満足気に笑い、またスケッチブックに向かいだした。
「ねぇ、ちょっと待って。ここはあなたの部屋じゃないの、わかるでしょ!」
 我にかえった愛は強い調子で訴えた。むしろ愛が私の部屋だと言いたいくらいだ。しかし、トトリはこの件は解決済みとばかりに、スケッチブックから顔を上げることはなかった。限界に達した愛は、スーパーの買い物袋をトトリめがけて投げつけた。ピーマンとたけのこと挽肉、それからお茶っぱのパックが入った袋はトトリをすり抜けてカーテンに当たり、ただ鈍い音を立てただけだった。愛の苛立ちは募るばかりだ。
「勝也!」
 愛ははけ口を求めるように勝也に向き直った。
「今日うちに来てっ!」
 とにかく、トトリと勝也を同じ部屋には置いておけない。愛は、和泉にはなんとしても承諾してもらって、トトリと勝也を引き離さなければいけないと決意した。勝也は愛の気迫に押され、無駄に何度も頷いた。

5
「難儀ね」
 サクサクくんを食べながら、和泉は同情を表した。途中、愛と勝也はカップアイスをひとつ買い足し、3人分サクサクくんの材料を用意した。今は愛の作った夕食を終え、3人でサクサクくんを食べながら、勝也の現状について話している。
「話を聞く限りだと、どうも生霊みたいな感じだね。はっきり人の形を取るなんて、実際じゃ珍しいけど」
「生霊?」
 勝也は目を丸くする。勝也のサクサクくんはまるで減っていない。こたつの上なこともあり、もうちっともサクサクではなくなっていた。
「生霊って、幽霊とどう違うんですか? ていうか、それより帰ってもらうにはどうしたら――」
 勝也の問いを、和泉は、うん、と受けてカップを置いた。
「まず生霊っていうのは、そう、源氏物語の、六条御息所は知ってるでしょ?」
 勝也は真剣に首を横に振る。愛は、例に出すには難しすぎると思った。ただでさえ、文学は勝也の苦手とする分野なのだ。
「じゃあ、雨月物語は?」
 和泉は少し考えてそう言い直した。愛はさらに難しくしてどうすると内心ずっこけた。勝也は案の定首を横に振る。
「あぁ、もう。違いなんて元の人間が生きてるか死んでるかよ」
「和泉さぁん!」
 投げやりだ。そして質問の肝心な部分を無視している。
「じゃあ、愛が説明して。今年1年いて、勉強してるでしょ?」
 試されている、と思うのは愛の考えすぎだろうか。勝也の期待のこもった視線を受けて、愛はこほんと咳払いをした。
「そもそも、幽霊は死霊と生霊に分けられます。最大の違いは、死霊は肉体を失った霊体そのものなのに対し、生霊は肉体から溢れ出た霊体の1部分だと言うことです。一般に、生霊は人の非常に強い情念によって生じるとされています。つまり――」
 つまり? つまりの後が継げない。つまり、なんなのだろう。つもりだけで、今までしっかり勉強してこなかったのかも知れない。愛は焦りと後悔から和泉を見つめた。和泉は、静かに愛を見つめていたが、愛が言葉に詰まったのを見て、かすかに微笑んだ。それから、愛の続きを引き受けた。
「つまり、死霊と違って生霊には、帰るべき場所がある、ということ。そしてその生霊がその場所に帰ってくれるかどうかは、その生霊が生じた原因となる情念の如何に依っている、ということ。一方で死霊は、もう向こう側に渡るしかないのだから、祓い浄める他にない。だいぶ乱暴だけど、ものすごく簡単に言えばこんなところ」
 まったく簡単でない。解らない話ばかりで、勝也はもう不安で泣きそうになっている。
「和泉さん、もうちょっとわかりやすくお願いします」
 刺のある調子で愛に言われて、和泉は頭を掻いた。
「その幽霊さんにいなくなってもらうには、どうして彼女があなたの部屋にやってきたかを知らないと行けないの。それ次第でいなくなってもらうためにどうすれば良いか変わってくるから、まずそこからね」
「解りました」
 勝也は厳かに頷いた。
「でもあの人、名前も教えてくれないんです。忘れたなんて言って。トトリなんて、偽名ですよね?」
「偽名でも、その人と何かしらの関係がある言葉なのは確かでしょうね。ヒントにはなるでしょ。あと他に、手がかりになりそうなものはある?」
 勝也と愛は顔を見合わせた。あと手がかりになりそうなものといえば、ひとつしかない。
「スケッチ」
 ふたりの声が重なった。トトリが書いていた楕円や長四角の絵だ。あれがなんなのかはまだ解らないが。
「それじゃあ、そのスケッチを調べて見るのが次の一手だ。そして何かわかったら本人にあたってみる。何か思い出すきっかけになるかもしれないしね」
 愛と勝也は不安を押し込めて頷いた。
「じゃあ、俺、一旦部屋に帰ります。スケッチブックも詳しく見てみたいし」
「それはだめ」
 愛が強い口調で引き止める。トトリと勝也をふたりきりにしたくない。
「ねぇ、和泉さん。今日勝也に泊まってもらっていい?」
「良いよ。こたつしか空いてないけど」
 和泉は事情を飲み込んで、渋々頷いた。

6
 翌日、図書館の談話室で、祐一と勝也、そして愛の3人は、トトリの書いた絵を囲んで座った。スケッチブックに書かれた絵は、後に書かれたもの程形を成してきていた。楕円は、帽子をかぶった木の実で、ドングリのようだった。長四角は、まだよくわからないが、細く切った餅のような印象を与えた。ドングリの方は、いろいろな角度から描かれていて、側に葉の絵も添えられているものもある。
「ねぇ、植物系男子」
「はいこちら植物系男子」
 愛の呼びかけに、祐一は朗らかに応える。
「何か解りそう?」
「そうだなぁ――」
 祐一はしばらくドングリの絵を睨んでいたが、ふいに顔をあげた。
「あ、そうだ! ちょっと待ってろ」
 大声を上げて祐一が談話室を飛び出すのを、勝也と愛は口を開けて見送った。
「これだこれ。課題やってて見かけた本」
 ものの数分もしない内に、祐一は大きな本を1冊持って戻ってきた。表紙には「日本どんぐり大図鑑」とある。
「それが、どうなるんだよ」
「待ってろって」
 不思議そうな勝也を制して、祐一は嬉々として図鑑を調べ始めた。
「これだ!」
 そしてしばらくもしない内に、祐一は図鑑の見開きをふたりに見せつけた。緻密に書き込まれたカラーイラストが、ページいっぱいに広がっている。向かって左手のページには葉を茂らせた木の全体図が描かれ、右手のページには、木の葉や樹皮の様子が簡単な解説と一緒に載っている。ページをめくると、細かな葉の様子や、ドングリの実の特徴なども丁寧に描かれていた。そして、その特徴のひとつひとつが、トトリの描いたイラストと見事に一致していた。
「これはな、シリブカガシって名前の木だ」
 祐一は得意げに勝也と愛を見回す。
「シリブカガシ? ドングリじゃないの?」
 愛の疑問に、祐一は待ってましたとばかりに顔を輝かせる。
「実はな、ドングリっていう名前の植物はないんだよ。カシとかクヌギとかっていう、ブナ科の植物の実の総称をドングリっていうんだ。だから色々種類があってさ。そして、このトトリさんが描いてるドングリは、ずばりシリブカガシっていう木がつける実なんだ!」
「そうなんだ。知らなかった」
 愛は素直に感心した。それから、一歩進んだことへの手応えを感じた。
「じゃあ、このイラストを見せれば何か引き出せるかも知れないんだな」
 勝也も嬉しそうだ。ところが、祐一はすぐ頷くことはせずニヤリと笑った。
「まぁ待てよ。シリブカガシなら運がいい」
 そう言って、ページを戻し木の全体図が描かれたページの左上を指差した。白地の日本地図があて、九州や四国の部分部分が緑に塗られている。日本地図の隣には「近畿地方から西の本州・四国・九州・沖縄に分布」とある。
「この緑の部分にだけ自生してるっていう分布図さ。ここまで範囲が狭いなら、出身地でカマをかけていくのもいいんじゃないか?」
「さすが植物系男子!」
 ふたりに声を合わせて賞賛され、鼻高々の植物系男子だった。
「じゃあ、早速これであたってみよう。長四角のも気になるけど、新しいヒントも出てくるかもしれないし」
 愛の提案に勝也が頷く。それから、勝也は祐一の方を向き、頭を下げた。
「次の講義だけど、出席確認の返事、変わりに頼む。あと、課題の提出も――」
 祐一は頷き、片目をつぶりグッと親指を立てた。
「任せとけっ!」

7
 まだ昼なので、愛がひとりでトトリと話をすることになった。トトリは勝也が代わりに置いていった新しいスケッチブックに向かって、相変わらず絵をかき続けていた。勝也が図書館から借りてきた「日本どんぐり大図鑑」を開いて、シリブカガシの見開きページをトトリに見せる。
「ねぇ、この木、見覚えない?」
 トトリはスケッチブックから顔を上げ、ドングリ図鑑に目を見開いた。
「知ってるの」
 トトリは図鑑に目を釘付けにしたまま頷いた。
「なんだって?」
「知ってるって。じっと見てる」
 勝也は感嘆の声を上げた。
「よくわかるな」
 愛は勝也を見やった。
「たしかに」
 ひと目でそれと解るというのは、余程この木が好きなのだろう。確かな反応を得た愛は、祐一の教えてくれたとおり、出身地を聞いてみることにした。分布図を見る。緑に塗られた地域を含んだ県を順に挙げていく。
「あなた、もしかして山口県の出身じゃない?」
 トトリはキョトンとしている。
「じゃあ、徳島?」
 やはり、反応がない。それから高知、愛媛、大分と挙げるが、どれも反応がなかった。
「鹿児島? 宮崎は? 熊本?」
 トトリは、熊本の言葉を聞いて、目を丸くした。愛の方も驚いた。まさか同郷とは――。
「トトリ、熊本の出身なの?」
 トトリは苦しそうに目を閉じた。何か、思い出そうとしているらしい。
「熊本?」
 愛の隣で、勝也も声を上げた。
「そうみたい。同郷かぁ」
 愛は必死に思い出そうとしているトトリを見ながら勝也に応えた。遠く離れたこの山梨という地では、同郷というだけで情が湧いてくる。熊本、愛の、帰りたくても帰れない故郷。
「ねぇ、どうして、熊本からこんなところまで来たの?」
 愛の言葉は幾分柔らかみをおびた。
「ここが、私の部屋だから。私の帰る場所だから。私の部屋――」
 一方で、トトリの声には逼迫した何かが混ざり始めた。きつく目を閉じながら、うわ言のように繰り返す。
「イチハラニハカエラナイ――」
「ちょっと、ねぇ大丈夫?」
 愛はトトリの肩に手をやった。その途端、愛の脳に電気が走り意識が飛んだ。
 
 けたたましいクラクションと車の走り去る音が聞こえる。何かの機械が動く重低音。灰色に染まった視界に、市原漬加工場と印字された看板が浮かび上がる。「そんなに恋しいんなら帰ればいいだろ!」年老いた女の叫び声。音が止み、映画のフィルムが切り替わるように映像が変わった。今度は一面に敷き詰められた凄まじい数のドングリ。遠くの方から、ごめんなさいと謝る声が聞こえる。また視界が変わり、どこかの病室が映し出された。病室のベッドには、点滴と人工呼吸器をつけた女性が横たわっている。謝る声は止まず、それどころかぐんぐん近づいてくる。愛はベッドの女性に見覚えがあった。声は、もう耳のすぐ近くで聞こえる。彼女は――。

「トトリ!」
 愛は再び勝也の部屋に立っていた。立ちくらみがして後ろに倒れかける。勝也は、愛の背中を体で支えた。
「だ、大丈夫か?」
 荒い息をしながら愛は勝也に身を委ねていた。心配する勝也の顔を見て、愛は安心した。
「だい、じょうぶ」
 時々、目の前に全く違う景色が現れることがある。和泉によれば、霊視と呼ばれる能力の一種らしい。愛のそれは自分で全くコントロールできない代わりに、その場に関係のないものや、事実の伴わない白昼夢のようなものを見ることもまずなかった。
 愛は支えられながら立ち直った。トトリは相変わらず目を固く閉じてうわ言を繰り返している。
「トトリ、あなたは、いったいどこにいるの?」
 愛の呟くような問いに、トトリは何も答えない。

8
 愛が見た病院のトトリは、危ない状態にあるように見えた。思っている以上に、深刻な状態なのかもしれない。
「死んだ人がさ、遠くにいる親しい人に会いに来るって話、よくあるよな」
 愛が見たものを聞いた勝也は、そんなことを言った。
「親しい、部屋に会いに来るってのは?」
 顔を青くしながら、祐一が問いかける。トトリに図鑑を見せた日の夕方、3人はまた談話室に集まった。新しく得た情報の報告と、次の行動を決めるためだ。
「昔やったホラーゲームに、マンションの部屋を母親と勘違いしている男の子の話なんかが出てきたけど、ゲームに使われるのって有名な話のアレンジか、逆にそのゲームオリジナルの話でしょ? 変な理屈だけど、部屋を人みたいに扱うような、そういう話はないと思うな」
 祐一は変な顔をした。
「見えんのに、そういうゲームやるんだ」
 愛は、勝也や祐一が見えることを単なる個性のひとつとして遠慮なく会話に組み込んでくれることを嬉しく感じている。足が速いとか、手先が不器用とかというのと同じ次元で話してくれて、壁を感じずに済むのだ。実家では、こうはいかなかった。
「見えるからよ。自分が見てるものが、夢とか妄想とかじゃなくて、確かに存在するものなんだって確かめさせてくれるような気がして」
 祐一は解ったような解らないような顔をした。
「そういう話はなくても、結局あの部屋に未練があるっていうのは確かなんだろ。未練って、どうしたら解決するもんなんだ?」
 勝也の問いかけに、愛は首をひねった。和泉に相談したいところだが、ひとまず自分で考えてみる。
「うぅん。満足させてあげるか、諦めさせてあげるか?」
「諦めさせるか。そりゃ、諦めてもらわないと困る」
 勝也は切実だった。いくら若い男子とは言え、そういつまでもこたつで寝ているわけにはいかない。
「そうだ、トトリさんが新しく描いてた絵、見せてくれよ」
 祐一に促されて、勝也と愛はトトリのスケッチブックをまた入れ替えてきたことを思い出した。新しいスケッチブックには、相変わらずドングリと長四角がいくつも描かれている。絵はますます正確さを増して、ドングリはシリブカガシであることはもう疑いなかった。
「こっちは全然進歩ないな」
 勝也の言うとおり、一方で長四角は薄切りの餅のような形というだけで、以前とほとんど変化がない。
「こういうもんなんじゃねぇの?」
「え?」
 投げやりに祐一が言った言葉が、愛には引っかかった。
「こういうもの?」
「いや、適当に言ってみただけ」
「そういえば、ドングリを使ったこういう食べ物があった気がする」
 次の祐一の言葉には耳を貸さず、愛は記憶を探った。勝也と祐一は驚いて愛を見る。
「えっと、確か、いちごんにゃくって言った」
「いちごこんにゃく?」
「あのゼリー、ドングリで作ってるのか?」
「違う。いちごこんにゃく、じゃなくて、いちごんにゃく」
 苛立った様子で愛が訂正する。
「熊本に作ってるところがあって、1回行ったことがあるの。ちょうどこんな形だった」
「でもなぁ、ちょっと弱くないか?」
 祐一の指摘に、愛は頷くしかなかった。トトリの絵はほとんどただの長四角だ。これだけのことから正体を特定することは、到底不可能のように思えた。
「でも可能性があるなら、その作ってる所に電話してみようぜ。思いつくのは潰していこう」
「うん。そうだね」
 勝也の声に、愛は勇気をもらった。ともかく、1歩踏み出せそうだ。

9
 作っているところは、インターネットですぐに見つかった。愛が見た市原漬加工場で検索すると、「湯先町上村婦人会市原漬加工場」のページが見つかった。そして、アップされた外観の写真が、愛の記憶と一致したのだ。連絡先を確かめ、勝也から借りた携帯電話のボタンを押す。熊本に電話するということが、なにとはなしに愛を緊張させた。何度目かのコールのあと、電話がつながった。
「はい、上村婦人会です」
 若い女性の声だ。
「こんにちは。お忙しいところ突然お電話差し上げて申し訳ありません。わたくし大学でドングリについて研究している三坂愛と申します。お伺いしたいことがあってお電話差し上げたのですが、ただいま少しだけお時間頂いてよろしいでしょうか」
 すらすらと嘘をつく。
「まぁ、わたくし山梨県で居候をしております三坂愛ですとは言えないよな」
 ぶつぶつ呟く勝也を、愛はひと睨みして黙らせる。
「はい、大丈夫ですよ。なんでしょうか」
 電話の向こうからは、遠い熊本から愛想のいい優しい声が聞こえてくる。
「ありがとうございます。上村婦人会様は、ドングリを使った料理、いちごんにゃくをお作りになっていると伺いました。それについて、お話がお聞きできたらと思いまして」
「いちごんにゃく、ですか」
 電話の向こうの声が少し暗くなった。愛も不安になる。
「いちごんにゃくは、確かに以前は作っていたようですが今は、あ、ちょっと待ってください」
「もしもし、お電話変わりました、婦人会の山本です」
 電話の向こうで何かやり取りをする気配があった後、別の女性の声が聞こえてきた。今度は、始めの人よりも年のいった女性の声だ。詳しい人に代わったのだろう。
「いちごんにゃくについてお調べですか? 例えばどんな」
「こんにちは、三坂と申します。はい、例えば、現在どこで作られているのか、とか」
 山本は、少し考えるように間を置いた。それから
「今は一般にはお売りしてないんですが、事情があって、私たちで少しだけ作ってるんですよ。もしお近くでしたら、勉強のために見学にいらっしゃいませんか?」
「事情というのは」
 愛の声が、一段と緊張を帯びた。
「それは、詳しくは話せません。内輪のことですので」
「例えば、ドングリの大好きな女性が、事故に遭って入院しているとか。意識が戻らないとか」
 山本は黙り込んだ。愛には、電話の向こうで山本が息を呑むのが解った。愛は、勝也をじっと見る。勝也は突然愛の口をついて出た言葉に呆気にとられている。
「あまり、良い冗談とは思えませんね」
 少しして聞こえた山本の声は、動揺していた。
「失礼なことを言ってしまいすみません。よく友だちにもこういうところが良くないと言われるのですが。本当にすみませんでした」
「本当に、良くないですね」
「すみません。それでこの期に及んでふてぶてしいようですが、見学を、させていただいてよろしいでしょうか」
 愛は普段とはまるで違う弱々しい物腰で言葉を繋いでいく。普段を見慣れている勝也と祐一には、愛が何か呪文でも唱えているようにさえ見えた。
「ありがとうございます。では、その日程でお伺いさせていただきます。よろしくお願いします」
「はっ?」
 勝也と祐一は思わず声をあげた。あの流れから見学に行くことになるとは思ってもみなかった。それに、見学に行ったところでどうなるというのだろう。
「お忙しいところご迷惑おかけします。はい、失礼します」
 勝也と祐一が戸惑っている間に、愛は話を決めてしまった。愛は一息つくと、携帯電話を勝也の手に返した。
「お前、どういうつもりだよ」
 驚き呆れながら、勝也は携帯電話を受け取る。
「少し乱暴だったけど、手応えはあったの。まるっきり事実と関係ない悪い冗談っていう反応でもなかったし、市原っていう地名は、トトリの口からも聞いてるしね」
 愛はまだ少し緊張しているようだった。けれど迷いがあるようには見えない。
「本人が思い出せないなら、本人を知っている人に会いにいくしかないでしょ。電話でいくら言っても、信じてもらえないだろうし」
 勝也にも祐一にも、愛が言っていることがうまく飲み込めなかった。確かに本人を知っている人に会って信用されれば、決定的な情報を得られるかもしれない。けれど、熊本まで行ったところで、そう都合よく見つけられるものだろうか。
「それって、霊感的な、なにか?」
 戸惑った様子で聞く祐一に、愛は少し怒ったように眉を寄せた。
「カンじゃなくて、私なりに考えた結果なんだけど」
 トトリが思い出すまで待てないのだろうかと、勝也は疑問を持った。けれどその疑問より、愛が熊本に帰るということが心配だった。
「愛、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。実家は関係ないし」
 愛はわざとなんでもない風に応える。
 ふたりのやり取りを、祐一はそっと距離をとって見ていた。

10
 その日の夜、こたつで愛の話を聞いた和泉は、まず目を丸くして、それから微笑んだ。
「愛の判断は正しいと思うよ。話聞くと、時間ないみたいだし。それでいつ行くの?」
「明後日です。朝の10時に立って、向こうで一泊して、次の日の朝に伺います」
 あの後、3人で立てた急ごしらえの計画を話して、愛はふと疑問に思った。自分で言い出した事とは言え、和泉がこうも簡単に納得するのが不思議だったのだ。
「あの、どうして、私が正しいと思うんですか? 自分でもかなり無茶してる気がするんですけど」
 和泉は露骨な呆れ顔になった。
「生霊は、生きている人間の霊体の1部分が飛び出してきてる状態だって言ったでしょ? 完全でない分、記憶がなかったり怨みやこだわりばかりで感情が偏ってたりするの。その彼女が何か思い出そうとしてるってことは、身体に残ってる方の霊体を生霊の方に引き寄せて、完全になろうとしてるってこと」
「じゃあ、つまり、トトリが完全に記憶を取り戻したら、身体の方の霊体がなくなってしまって、彼女は死んでしまうってことですか?」
 愛の脳裏に、苦しそうに同じ言葉を繰り返すトトリの姿が蘇った。自分は、知らず知らずトトリを追い詰めていたのだろうか。でもそれは、和泉の助言に従ってやったことだ。
「普通ならそこまで危なくないんだけどね。身体の方でも、霊体を留めようとする力が働くし。だけど身体の方が愛が見たとおりの状態なら、急いだ方がいい」
 和泉が最初言った方法は、いわば諸刃の剣だったわけだ。そのことを少しも説明しなかった和泉に、愛は憤りを覚えた。
「それで、いくら掛かるの?」
 費用を聞かれて愛はぎくりとした。当日のタイムスケジュールや交通費を書いたメモを取り出す。居候の身として、この金額は、さすがに言いづらい。
「えぇと、その、44,070円、です」
 和泉は苦笑いを浮かべた。
「それ、片道の金額でしょ」
「88,140円、くらいです」
 指摘されて、往復分に言い換えてみる。ちなみに、交通費だけで宿泊費は入っていない。
「あの、私、出せますか?」
 山梨に来てから、愛が細々とバイトで蓄える貯金は和泉が管理していた。食費や光熱費などそこから差し引かれ、月始めに決まった額が愛の財布に入る。それ以外の金額は、和泉が銀行の口座で管理している。
 和泉は立ち上がって、タンスから封筒を取り出した。こたつの上を滑らせるようにして愛に手渡す。
「中見てごらん」
 覗くと、一万円札が5枚入っていた。驚いて、和泉の顔を見る。和泉はニヤリと笑った。
「これは私から、人の命を救ったお祝いの先払い。足りない分はあなたの預金から出すからね」
「和泉さん」
 思いがけず胸が熱くなる。それと同時に、失敗は許されないと気が引き締まる。
「それで、肝心の策はあるんでしょうね」
 和泉も、一転して真剣な眼差しを愛に向ける。
「はい。明日は、その準備にあてるつもりです」
 和泉は、うん、と頷いた。それから、気遣うように和泉の様子を伺った。
「あまり、余計なことは考えちゃだめだよ」
「わかってます。大丈夫です」
 愛は居住まいを正した。できる限り、実家のことは考えないように心がけるつもりだ。
「うん。じゃあ、どういうふうに進めようと考えてるのか、聞かせてくれる?」
 愛は頷いて、話し始めた。

11
 まったく、綱渡りの上に綱渡りを重ねたような作戦だった。次の日に話を聞いた勝也と祐一も、最初は黙り込んだ。愛が和泉にも止められたことを話すと、ふたりは、だろうな、と声を合わせた。
 愛は、概ね次のようなことを考えていた。羽田空港から熊本空港へ飛び、その日の内に人吉に入り一泊。翌日、くま川鉄道を使い人吉温泉駅から新鶴羽駅へ向かい、そこから徒歩で婦人会を目指す。見学をした後、できる限りトトリにつながる情報を入手する。そして、山梨に帰った後、トトリにそれらを話し、熊本に帰るよう説得する。以上だった。
 当然、勝也と祐一からは疑問が噴出する。
「婦人会まで行くのはいいとして、どうやってトトリのことを聞き出すんだよ」
 勝也から的を射た質問が来る。
「勝也にトトリの似顔絵を描いてもらおうと思うの。それで、まず最初の確認が出来ると思う。トトリの事を、知ってるかどうか」
 愛は正面から答える。
「トトリさんが帰るように説得するって、どうやるんだよ」
 これは祐一だ。
「和泉さんからアドバイスもらったんだけど、本当の名前さえ思い出せば、返すことができるみたい。名前を教えて帰る場所を解らせて、帰りたい気持ちにさせれば良いと思う」
「なるほど」
 勝也は解ったように頷いた。
「いや、俺は解らんぞ」
 祐一が冷や汗を流しながら言う。
「いったい、どうやって帰りたくさせるつもりだよ」
「それは」
 愛は一度言葉に詰まって俯いた。
「情報を手に入れてから考える」
 開き直ったような愛の返答に、勝也と祐一は顔を青くした。
「愛、お前、ただ熊本に帰りたいんじゃないのか? そういう気持ちが、トトリの事とごちゃ混ぜになって――」
「違う!」
 愛は弾かれたように勝也へ突っかかった。
「私はもう八代には帰らない! おばあちゃんにもそういっちゃったんだから!」
 沈黙が降りた。愛は、大きく息をひとつ吸って、勝也を見つめる。
「とにかく、トトリの似顔絵を描いて、私にちょうだい」
「熊倉さんは、良いって言ったのか。さっき止められたって」
 愛は決まり悪さそうに勝也から目をそらした。
「和泉さんは、一度認めたら、後からダメとは言わないから」
 愛は、もう一度勝也の目を見つめた。
「ねぇ、お願い。勝也が許してくれたら、私はきっとうまくやるから」
 勝也は、愛の目のなかに、故郷への思いを見ていた。そして、自分に愛を止められないことを悟った。おそらく、勝也がどう応えても、愛は明日になれば熊本へ飛ぶだろう。一度決別した故郷へ。愛にとって、トトリの事はついでに過ぎないのかも知れなかった。
 勝也は、そっと愛の髪をなでた。
「うまくやれよ」
 愛は、目を潤ませて一度大きく頷いた。

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作者紹介

空疎

あなたはただのゼリーです
見える光は全部嘘
聞える音は全部嘘
あなたはただの
ふるえるゼリー
ひとりふるえる
ただのゼリー

中編小説「ゼリーの見た夢」より


---------------------------



姉妹は仲の悪いまま年老いて
 町は背を伸ばし肥え太る
幾度かの通夜と性交を経て
 雪は降らなくなった
生まれた家は駅に食われたが
 風は相変わらず強く吹いている
姉妹は仲の悪いまま年老いたが
 市長に品が無い
 という意見だけは一致している


「姉妹は」より

個人サイト

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小石薫

美代子は必死だ。一生懸命に声を張り上げて、誰かが、聞いて、興味を持って、自分のいる教室のドアを開けてくれることを、ずっと待っている。
 伝えたいことがあると言った。
 私には、あるだろうか。伝えたいもの。伝えたい気持ち。私の中にあるのは、ぬるく、濡れそぼった、この、寂しさだけ。

短編小説「夕焼け校舎」より


---------------------------

金魚風船


「私の事、好き?」


「え?」


「ごめん、いきなり」


「ごっつ好きやで」


「ほんとに?」


「当たり前やろ、俺のたった一人の娘なんやから」


「そっか」


間。



「やっぱ、別のことしよっか」


「え? なんで? 凄い楽しいのに」


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短編脚本「お父さん」より

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